メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第109章

届いた訃報

2018年1月末に悲しい知らせが届いた。萩原節さんが24日に亡くなったとの訃報である。思い返せば、私の東京での第一歩(1976年1月)は、彼の店『AMBE(アンベ)』の厨房から始まった。就職を斡旋してくれたメキシコ大使館商務部(当時)のAnibal上原氏との繋がりが無ければ、我が人生は違ったものになっていただろう。二人はメキシコ留学時代からの友人だった。面接当日、私の緊張をほぐすように、にこやかな表情で「期待しているよ、頼むよ!」と肩を軽く叩いてくれたのを今でも覚えている。大使館と目と鼻の先で、節さんが営む店は毎夜、生演奏で本国の曲を聴かせるクラブ形式のライブハウスで、店内は各界の著名人で賑わっていた。それまでのメニューを一新しようと考えていたが、店の運営上、オーセンティックなメキシコ料理一本に絞るわけにもゆかず。定番のホタテの和風サラダやイカのホイル焼き、御新香などを引き継ぎながらタコスやエンチラーダを組み入れてスタートした。中南米の音楽に身を委ね、酒を酌み交わす中での顧客達の注文は慣れ親しんだ以前のものばかりで、新献立は見向きもされなかった。昭和の時代、音楽に関してはトリオ・ロス・パンチョスのおかげで期待感は高まっていたが、料理には全く興味が示されず、コーラスやソロの曲の調べに酔いしれていた。

救われたのは、節さんを含むバンドのメンバーが、中南米音楽を忠実に再現しようと試みていた姿勢だった。表現者としての私のメキシコ料理に対する一途な思いを理解し、同志と認めてくれた状況が生まれていた。調理場に籠もる私に、彼らは「いつか判るよ、頑張れ」と優しく声をかけてくれた。初期リーダーで、ロス・インディオスを結成したが事務所の方針でラテンムード歌謡に移行していく中、グループを他の仲間に託し自己の表現の場を求めた節さん。きっと心のどこかで私の遠い未来を応援してくれていたはずである。たった半年の勤めで義理を欠いたが、渋谷公園通りにラ・カシータを開業してからも、早朝野球に誘ってくれたり、イベントで会うと、満面の笑みで「ようせい!頑張っているか」とハグされた思い出が深く心に残っている。本国で牛ハラミステーキが流行った時も、作り方を教えて欲しいと連絡があったり、教室にスタッフが顔を見せた時もあった。身体の調子が良くないと噂には聞いていたので気にはしていた。そう言えば『AMBE(アンベ)』に居た時、常連客のビストロ開店祝いで、わざわざ静岡まで連れて行ってくれた。全て美味しくいただいた料理の感想リポートを帰りの新幹線の中で依頼され、提出したら「上出来だ!」と褒めて貰った記憶がある。きっと調理人としての資質を計られていたのかもしれない。私の生き方を見守ってくれた節さんには心からの感謝しかない。合掌!