メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第133章

メキシコ料理本の企画

主婦の友社から料理本作成の依頼が舞い込んだのは、1993年の春も過ぎようとしていた頃だった。夏に向けて異国情緒満載のレシピ本に仕上げたいと、編集者は意気込みを語ってくれた。『エスニック風おかず』の署名で企画された内容は、タイ、ベトナム、インドネシア、中東、そしてメキシコの5人がそれぞれの持ち味を披露できる本格的な専門書を目指していた。前菜、スープ、軽食、肉、魚介、卵、野菜、デザートに至るまでの調理法、そして何よりも嬉しかったのは、主食のトルティージャの調理工程、独創性溢れる唐辛子類の解説も盛り込まれていた。共著ではあったが、一冊でここまで広く発表できるのは初めての経験だった。回を重ねて打ち合わせが進む中、慣れない原稿執筆も何とか熟し、撮影の段階に入った頃には3ヶ月の時を要していた。用意されたお洒落な食器に盛り付けた献立類は彩りも良く、期待は膨らむ一方だった。8月下旬、出版されたフルカラーA4判、120アイテムのそれは評判を呼び、後に文庫本として長期に渡り支持されてゆく。そして現在はワカモーレやタコスなどが同社の食材辞典に掲載されている。今思えば、10年先に自著を刊行する機会のリハーサルをやらせて貰えたのかもしれない。余談だが「エスニック」の単語は、店の顧客だった美術評論家の故宮本美智子女史が、1979年に『ニューヨーク人間図鑑』の著書で初めて紹介した言葉である。

「渡辺さん、私もメキシコ料理の本、書いたわよ」と黒沼さんが訪ねてきたのは1996年の初冬の頃だった。世界的なバイオリニスト黒沼ユリ子さんは旧山手通りの店からの常連である。『メキシコのわが家へようこそ』と題された素敵な本のページには、手作りの沢山のメニューが、所狭しと埋め尽くされていた。30年以上、メキシコで暮らしている彼女にとって、食べ慣れた個性豊かな品々を調理するのはお手の物、見事にどの皿もメキシコ色に染まっていた。メキシコシティから車で1時間の郊外に建てられたご自宅は、土と木、タイルを駆使した独創的な家。その外壁、室内はオレンジ、黄色、ブルー、赤、グリーン、薄紫色のペンキが塗られ、家具はメキシコ製、料理を彩る食器は素焼きである。料理と調和したその景色からは、本国独自の明るい日差しとゆったりとした時間の流れが漂うように伝わってくる。私にとって宝物の一冊である。2012年4月に旭日小綬賞を受賞された折、それを祝う会がラ・カシータで行われた。高校音楽科の同級生たち30人を前にして黒沼さんの最初の一言には驚いた。「皆様、今生のお別れでございます。本日は楽しい時間を過ごしましょう」、悪い冗談である。帰り際、手渡された旦那様のCD2枚は今の大切にしている。現在はメキシコに縁がある千葉県の御宿に住まわれて、時折、コンサートを開かれている。いつまでもお元気で!