メキシコ料理の店 ラ・カシータ/Restaourante La Casita Cocina Mexicana

オーナーシェフのコラム

第100章

人生の分岐点になるアドバイス

「東京で勝負してみよう」、その思いを強く感じた手掛かりは、ひとりの男との出会いから始まった。メキシコ修行から帰国した1975年初冬、行く末を案じていた父親の紹介で相談に乗ってくれたのは、蓮見と名乗る電通の社員だった。後に本社の役員にまで昇りつめるが、当時はまだ30代半ばの好青年。背が高く端整な顔立ちでいかにも聡明な印象だったのを覚えている。場所は東京の羽澤ガーデン、広大な庭を持つ料亭の一室だった。本国で習得した技術や知識を一通り話し、仕事のあてもなく、店を開業する資金も無い。この国で表明する手段を探したいと打ち明けた。彼の答えは明快だった。「教えに行けばいいじゃないですか。」目から鱗が落ちた。そんな大層なことは考えてもみなかった。地元の関西では先輩や友人も多く、人間関係の距離が近い分、道を開拓するやりづらさに悩んでいたが、誰も知らない東京なら強気になれる。そんな思いが心に広がり、一筋の光明が灯された瞬間だった。だが、西も東も分からない大都会で本当にやっていけるのか。一抹の不安もあったのは確かである。この頃の時代背景は、関東と関西はお互いに分離されたような状況で、言葉や食べ物だけでなく、習慣や価値観、美意識も違っていた。自分の背中を押したのは渡墨する前のリサーチで体験した六本木の店が切っ掛けだった。

意外に繁盛していたその店のトルティージャは、卵に小麦粉を混ぜて焼いたクレープそのものだったのを思い出したのである。メニューも肉や海老にチリ・パウダーをかけて調理した皿だった。世界の玄関口なら恥ずかしくない料理を提供するべきと、勝手な理由をつけて対戦相手に想定し、闘争心に火を付けた記憶がある。頼れる男がたった一人居た。メキシコ大使館の商務参事官、Sr. アニーバル上原。日本に帰って来たら連絡が欲しいと言われていた。報告も兼ねて永田町に出向き、「どこか調理を教えられる店はないですか?」と持ちかけてみた。そこからの流れは以前の原稿で触れたとおり、赤坂「Ambe」の仕事を斡旋してくれたおかげで生活も安定し、東京での暮らしがスタートした。「Ambe」ではオーセンティックな献立はあまり評価されなかったが、店を閉めた後、オーナーが六本木の各人気店で美味しいものを奢ってくれるのが常だった。刺激を受けた1970年代半ばの移り行く街は為になる体験として残っている。振り返ると、あの一言がなかったら神戸で燻り続けていたかもしれない。蓮見はまるで後輩の面倒を見るかの如く、渋谷公園通りにオープンしてから現在まで、来店しては料理に舌鼓を打ちながら「元気でやってますか?」と優しい目で話しかけてくれる。退職してからは大学教授となり、会社で培った知識を講義して次世代の育成に努めている。因みに文中に触れた六本木の店はいつの間にか閉店していた。人生の分岐点になるアドバイスに感謝である。